先日、山梨にある「キース=ヘリング美術館」に行ってみたんだけどさ、まあこれがなかなかビックリ!・・・何がって?「80年代アート」というのはこんなにも瑞々しくて、生命力に溢れたものなのかってこと。まるで2015年の現在に世界のどこかで「新しい表現」として生まれたかのような新鮮さがありました。もちろん日本から遠く離れた地域(NYとか)での文化だからそう感じる部分もあるし、キース=ヘリングが属するアートは「ポストモダン」のようなメインストリーム芸術に対する「カウンター・アート」だからなのだろう!って考察もできる。そして「ポストモダン」(=化石)を代表するような芸術作品はというと、思い描くものは人それぞれでしょうけど、やっぱりどれも風化していて「ポスト」なのに悲しいほどに徹底的に古い(ポストゆえに急速に劣化?)という哀愁に誘われる。
自動車デザインで例えるならば、ジウジアーロの作品として名高い「初代VWゴルフ」なんかが典型的な「ポストモダン」だね。その後に登場したフォロワーども・・・「3代目シビック」や「5代目ファミリア(BD型)」もまさに同類。確かに3モデルともに「品格」こそ感じられっけど、今の視点で見ると徹底的に「古い」から、2015年に愛車として乗るには勇気が必要。結局のところ「ポストモダン」とはグローバル化の尖兵的な事象に過ぎないわけで、ジウジアーロのデザインしたクルマが世界中で売られるようになり、日本でもイギリスでも同じようなデザインのクルマがアホみたいにボコボコと作られて、デザインの価値が「消化」されたんだろうね。ジウジアーロの「革新」的な影響力が情報化によって急激に増幅された結果、同時代的な別のデザインアイディアの芽をも摘み取ってしまったようだ(まあジウジアーロに勝てるデザインが無かったんだろう)。
ちなみに誰も知らないクルマだと思うので挙げなかったけど「オースティン」というイギリスのブランドから発売された「メトロ」「マエストロ」「モンテゴ」なんていうクルマも「初代ゴルフ」にそっくりなデザインだったりする。ちなみにこれらニューデザインのクルマが相当に不人気だったようで、「オースティン」ブランドは発売からまもなく終焉する羽目に遭う。そしてこの不人気車3台の前身モデルにあたるのが「オースティン1100」というシリーズなんだけど、これがさ・・・「キース=ヘリング」なんだよ。見ればわかるけど、今の日本でも大人気になっている「BMWミニ」の源流っす。
ちょっとややこしいし、今となってはどうでもいいことなんだけど、オースティン・ローバー・グループっていって、「オースティン」と「ローバーミニ」のプロダクションは根っこが同じで、デザインも我々日本人には区別できないレベルにそっくり。BMW傘下になって3代目となるミニは、もはやイギリス車なのかドイツ車なのかよくわからないけど、あのオシャレ腐ったBMWグループの一員として、デザイン面でもの凄い発信力を持ってやがる! 名門メルセデスでさえも、いつの間にやらアメリカや中国に媚びるようにケバケバしい化粧をまとった「カスデザイン」になっちまったけど、BMWミニは自らの「キープコンセプト」をこの2大市場に押し付けつつ、ちょっとデカくなって迎合している部分もあって評価は微妙だけど、メルセデスや本家のBMWよりはずっとマシですかね。
「ポストモダン」の最新バージョンとして劣化の時をただ待つだけの最新型メルセデスよりも、BMWミニはずっとずっとずっと「血の通った」デザインってこと。先代のメルセデスEクラスはもの凄く情けない姿をあちこちで晒してますけど(あのダサいヘッドライトは何?)・・・その劣化はクラウンなんかよりもずっとずっと早いですなぁ。日産も北米向けにデザインされたフーガやスカイラインの劣化がやたらと早い。まだセルシオの面影を残すレクサスLSの「非スピンドルグリル」は格調を感じるけど、あのグリルを配したレクサスはどれもこれも劣化が早い。まあメーカーとしては金持ち相手の商売で、すぐに買い替えをさせるって狙いもあるだろうけど。
結局さー・・・「スパルタン」「エアリアル」「サイバー」「メルヘン」「エキセントリック」なんて要素を無理矢理に取込んだところで、資本主義の上層階にいる人々なんてデザインに大して興味が無いんじゃないっすか?「ミウラ」や「カウンタック」のような牧歌的な時代(オイルショック以前)ならまだしも、それ以後の高級スポーツカーってどこか嘘くさい。「ポストモダン」以降の高級車なんてどれも、「金持ちが乗ってそう」と思わせるだけが取り柄の縮こまったものばかり。歴代のSクラスも7シリーズもA8も、何一つ記憶に残るモデルなんて無い。「金持ちのライフスタイル」の一部を構成する家電くらいの重みしか無いです。さて・・・これは禁句かもしれないけど、歴代の「911」も振り返れば「無」だと気づいてしまうよ。
世界中の人々がそれぞれに営む「ポストモダン」的なライフスタイルの中に取り込まれてしまったら、そんな「能天気」なクルマなんてさ、精神的な部分では全くの無価値・・・。キース=ヘリングのアートにはそんな「空虚な価値観」(=現代生活)によって消化されたりしないだけの強靭な「精神」が宿ってるよ。反社会的なスタイルとかエイズで夭折したりとか、「汚れちまった悲しみに・・・(@中原中也)」みたいな「業が深い」というか「突き刺さるリアリティ」とか。カウンターアートの担い手というのは、どいつもこいつもアンダーグラウンド出身。そしてアンダーグラウンドなピープルによって支持されてるから、権威主義的な人々からは軽蔑される・・・だからカウンター。
資本主義ってのは「階層化」から逃れられないみたいだけど、社会の底辺によって支持されてきたモノってのは、その年月が築き上げた「オーラ」を纏うようだ。「ローバー・ミニ」「フィアット500」「VWビートル」なんかが、その代表格になるのかな。個人的な好き嫌いはともかく、客観的な視点で見つめれば多くの人々の心を動かすオーラを放っているね。余談だけど「一億総中流」だったはずの日本車にもその手のモデルはあるよ。「スズキ・ジムニー」の2代目は1981〜1998年までの18年間ロングラン、そして現行の3代目は1998年から今年で18年目に突入。ここまでくるといろいろな人を惹き付けるようで、普段から高級車をボロクソに貶す評論家の西川淳さんの愛車の1台になっているんだとか・・・。
簡単に結論すると・・・、高級車ってのは悪く言うとその時代のライフスタイルの「奴隷」。そもそもデザインに「主体性」なんてないし、ただその時代の「欲望」を素直に形にしただけ(クルマには不要な価値観だと言っておこう・・・)。 廉価なクルマは・・・とりあえず人々に愛されて年月を重ねれば「意味」を持ってくるんじゃないですか。なので日本メーカーはベースモデルほど「キープ・コンセプト」で作り続けてみてはどうですかね?
え?「底辺のクルマ」ミニに400万円とか払う日本人は馬鹿かって?・・・知らん。
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